「ふくべ細工」は干瓢(夕顔の果実)の外皮(ふくべ)を乾燥きせ、種子を取り除き、
加工をしたものである.1、「ふくべ」専用の干瓢(夕顔の果実)を育てる.
1本の苗から3〜4個だけ残して摘果し、皮の厚いふくべ専用の干瓢を3〜4個育て
る。1本の夕顛からたくさん実をとると皮が薄くなり、乾燥するときに割れてしまうの
で、よい「ふくべ」ができない. よい「ふくべ」を作るには、ふくべ専用のよい干瓢を作ることが大切である.そのた
めには、1本の苗からとる数を少なくするとともに」畑の土質、肥料の種類や与え方な
ども注意しなければならない.また、種子も大玉用、中玉用、小玉用と別れているので
用途に応じて育てる必要がある.
2、干瓢を乾燥する.
天気がよいときに、干瓢のつるのついている方を下にして天日に干し、自然乾燥させ
る.このとき干瓢に小さな穴を開けておき、内部の乾燥を助ける.ただし、入れ物を作
るのかお面を作るのか、用途を考えて開ける場所を決める。特につるの部分は肉が厚く
乾燥しにくいので注意する。.
竹を組んで、その上に干瓢を乗せ乾燥させるとうまくいく.干瓢を腐らせないために
は、まめに動かすことが大切である.外皮に厚みがないとこの自然乾燥のときに割れて
しまう.こうして9月から来年の1月頃まで約4か月間ほど丁寧に乾燥させる.
、細工をする.
(1)入れ物にするかそれともお面を作るやか用途に応じてふくべ(干瓢の外皮)を切断
する.
(2)、種を取り除き中(内側)をきれいにする。
(3)、細工をし表面を磨いて形を整える。
(4)、絵を描き彩色をする.最後にニスを塗って完成する。
昔はどこの干瓢農家でも種取り用の干瓢(ふくべ)を作っていたが、今ではよい種が買
えるのでほとんどつくらなくなってしまった.商品にする「ふくべ」の材料はすべて特別
注文される.自然のものを相手にするのは大変なことである.まずは外皮の厚いよい干瓢(夕顛の果 実)を得ること、そして約4か月の聞手閑暇を惜しまず丁寧に自然乾燥させることが大切である.
当店では日光彫の職人が使用している「ひっかき刀」を用いた、伝統工芸の体験をすることができます。
彫刻を施す素材に、鏡・デスクBOX・写真立ての3種類を用意しており、お好きな絵を彫った物をそのままお持ち帰りいただけます。
店舗へ個人でお越しいただいた方はもちろん、団体様での体験も承っております。
私達、日光殿堂案内協同組合は
堂者引き(どうじゃびき)
と申しまして、日光の世界文化遺産である
東照宮 輪王寺 二荒山神社など
現地案内!ガイドをしております
修学旅行のための日光ガイドへようこそ
明治から平成まで、時代と共に歩んできた日光金谷ホテルは、今日においても開業当時の趣を色濃く残しております。ほんのひと時、古き良き時代に想いを馳せてみてはいかがでしょう?
日光金谷ホテルでは、食事用のパンをキッチンで焼いていましたが、宿泊客の希望に応じて分けているうちに地元の人々も買いに来るようになり、ホテルの外に専用工場を作り、市内での本格販売が始まりました。
その第一号店が日光物産商会1階の神橋店で、古くから親しまれています。神橋店でのパンは50種類以上。お昼過ぎ頃が一番充実しているのでねらい目。TVなどでよく紹介されるため、売り切れることもあるのでお早めに。 宅配による取り寄せも承ります
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日光市は栃木県の北西部に位置し、北は福島県、西は群馬県に接しています。日光火山群と鬼怒川上流域、大谷川流域等に広がる区域の総面積は1,449.87平方キロメートル で、県土の約4分の1を占めています。日光国立公園地域を中心とする山間部の多くは、水源かん養や自然環境の保全等の機能を担う振興山村地域に指定されているほか、一部地域は水源地域にも指定されています
開祖である勝道上人は、735(天平7)年に下野芳賀郡(現在の栃木県真岡市南高岡)に生まれ、7歳のある夜、明星天子が夢に現れ「仏の道を学び、日光山を開け」とのお告げに導かれ、10人の弟子と766(天平神護2)年、大谷川(現在の神橋/当時はもちろん橋はない:山菅の蛇橋伝説)を渡り、四本竜寺(現在の本宮神社・三重塔付近)を建立したのが日光山の起源だ。一行は、主に日光山中(現在の世界遺産日光の社寺エリア)で16年余の修行を経て、782(天応2)年に二荒山(男体山)山頂を極め日光(二荒山)開山を成し遂げた
霧降プラザは自然がいっぱいのリゾート地、日光霧降高原の閑静な別荘地にあります。リゾート気分をたっぷりと味わえ、お風呂でゆったりくつろぎ、おいしい食事が堪能でき心身ともにリフレッシュしていただけます。
明治の初期、外国人専用の宿泊施設を作ることは並大抵のことではありませんでした。当時の日本人には外国人に対する深い偏見があり、外国語や異国文化を簡単に受け入れられる環境ではなかったはずです。そのような中、進取の気性に富む善一郎にホテルの開業を勧めたのがヘボン博士でした。英語も話さず、海外にも行ったことのない善一郎が「金谷カテッジイン」を開業し、軌道に乗せることができた背景には善一郎を力強く支えた人々がいました。
由緒
日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。家康公は、天文(てんぶん)11年(1542)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)でご誕生になり、幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立されました。そして、世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。
宮号宣下(ぐうごうせんげ)
家康公は、元和2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。
尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。
奈良時代の末、勝道上人によって日光山は開かれました。四本龍寺が建てられ、日光(二荒)権現もまつられます。鎌倉時代には将軍家の帰依著しく、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出します。この頃には神仏集合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)山社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道(山伏/やまぶし)が盛んになります。室町時代には、所領十八万石、500におよぶ僧坊が建ちならび、その隆盛を極めます。
江戸時代、天海大僧正(慈眼大師/じげんだいし)が住職となり、山王一実神道(天台宗)の教えで「家康公」を東照大権現として日光山に迎えまつります。「輪王寺(りんのうじ)」の称号が天皇家から勅許され、さらに慈眼大師(天海大僧正)・三代将軍「家光」公が新たにまつられ、「日光門主」と呼ばれる輪王寺宮法親王(皇族出身の僧侶)が住し、宗門を管領することになりました。法親王は14代を数え、幕末に及びました。
明治になり、神仏分離の荒波を越えて現在の「輪王寺(りんのうじ)」があるのです。
御祭神 二荒山大神 (ふたらやまのおおかみ)
⇒親子3神を祀る
大己貴命 (おおなむちのみこと) 父
田心姫命 (たごりひめのみこと) 母
味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと) 子
古くより、霊峰二荒山(ふたらさん・男体山)⇒標高2,486?を
神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と
仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。
境内は、日光国立公園の中枢をなす、日光連山をはじめとて、
御神域は、3,400?におよぶ広大な境内地です。
華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財の神橋など
日光市内に3社鎮座しています。
男体山山頂⇒ 奥宮
中禅寺湖畔⇒ 中宮祠
山内(市内)⇒ 御本社
神橋 聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗に映える美しい神橋は、昔は「」「山菅の蛇橋」などと呼ばれ日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録されました。
橋の長さは28メートル、巾7.4メートル、高さ(水面より)10.6メートルあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られています。
奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなりました。
昭和57年男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より今回の大修理が行われました。 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられています
こちらは栃木県立日光自然博物館のホームページです。博物館や関連施設のご案内をはじめ、日光の旬の自然情報やイベント情報などをご紹介。
本公園は、世界遺産に登録された日光東照宮をはじめとする二社一寺「日光の社寺」に近接し、北には男体山、女峰山等の日光連山を仰ぎ、南は大谷川の清流を隔てて鳴蟲山を借景とし、西は寂光の滝を源とする田母沢川を境とし、周辺を杉木立に囲まれた閑静で風光明媚な場所にあります。
日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。
昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。
建物は、江戸時代後期、明治、大正と三時代の建築様式をもつ集合建築群で、現存する明治・大正期の御用邸の中では最大規模のものです。これらの建物や庭園から、当時の建築技術や皇室文化を垣間見ることができます。
平成15年(2003)に貴重な建造物として「国の重要文化財」に指定され、平成19年(2007)には「日本の歴史公園100選」に選定されました。四季折々の風情ある庭園と日光田母沢御用邸の100年に及ぶ荘厳な趣きを是非ご堪能ください。
What is Edo Wonderland?
In Nikko, Tochigi Prefecture, there is still a slice of the Edo Period left for to you find. Pass through the sekisho border checkpoint and progress down the main road that leads to Edo, on the way you will pass through the peaceful shukuba inn town, before finally arriving in Edo with its bustling market district.
And that's not all. There are noble samurai with topknots, ninja lurking on roof tops, beautifully adorned geisha, and cute village girls dressed in kimono, you'll run into all kinds of characters in Edo! - And you even have the option to transform into one!
While in town be sure to check out all the theatres, try out Edo-period cuisine and occupations, and before you know it you'll be a real Edo citizen!
平成27年シーズン営業開始のお知らせ
2015年のシーズンは4月11日(土)より営業開始!
四季折々の美しさを間近に見られる中禅寺湖遊覧船の旅!
男体山や白根山の雄姿、湖岸の美しい自然を、遊覧船ならではの景観でご覧ください。
皆さまのお越しをお待ちしております。